九州朝陽会報
平成十九年三月一日発行 第 二 号
∇ 年寄の社会活動
平成17年8月、地方紙を見ていたら、大分市の公募委員募集の記事に目が留まった。「市民協働基本
指針策定懇話会」結成の段取りである。学識経験者2名、市議1名、各種関係団体代表者4名、市職員3名
のほかに、公募委員5名を加えるというものである。公募委員5名の選定では、学識経験者2名による小論文
審査と面接試験があるとのこと。
「これは近頃面白い!」…と飛びついた。小論文も苦にならず、面接で何を聴かれるか楽しみにして
出かけた。面接委員の大学の先生2人が、なんとなくやりにくそうな面持ちで面接された。応募者8人から
選ばれた5人に入ることができた。やれやれ。
翌9月に懇話会が始まった。第1回目は、市長から委嘱の辞令を受け、委員の顔合わせをし、懇話会の
進め方、実働部隊の「作業部会」メンバーの選定等があり、作業部会に手を挙げ加えてもらった。
10月に入るとすぐ、作業部会の招集があった。その後はほぼ毎月1回の割りで開催され、1年後の平成
18年9月の指針完成までに、懇話会6回、作業部会は13回を数えた。アンケート調査やパブリック・
コメントの集計待ちでブランクの月もあったから、作業部会2回、懇話会1回、計3回も集まる月もあった。
一番苦労したのは、文章作りであった。事務局から出てくる原案や、他の都市の参考例はいずれも相も
変わらずのお役所的な文章で、市民によく読んでもらってやる気になってもらえるか、甚だ不安なもの。
「こんな文章にしたらいかがでしょう?」と1章分の文章モデルを書いて提出すると、終わりまで全部
原稿を書いてくれと頼まれた。委員の半数以上の人がNPO法人や自治会長経験者で、地域のボランティア
活動に造詣が深く、議論はとても活発で面白かった。
平成18年10月に20ページほどの冊子(下図は表紙)に仕上がって渡されたときは、これで
年寄も社会の役に立ったか…と、満足感にしばし浸った。
ホッとしていたら、新たな呼び出しが来た。大分市が5年前に作った「総合
計画」(目標年次平成22年)が中間見直しの時期となり、90人近い委員を
集め、7つの分科会に編成し、各章ごとに検討するとのこと。従来いろいろな
審議会・委員会で活動してきた人たちを大動員したのだろう。新米の私も「市民
協働基本指針」の実績(?)で、メンバーに引っ張り出されたようである。しかも、
総論を担当する総務部会(13人)の副部会長を仰せ付けられたのだから驚きで
ある。
そうこうするうちにまた市報を見ていたら、今度は「男女共同参画審議会」の公募委員募集の記事が
あった。
個人的には前々からこの「男女共同参画社会基本法」およびそれに準拠する「市条例」には関心があり、
またもや手を上げて小論文を提出し合格した。
こちらの審議会はメンバー20人で、女性が半数を占める。近頃元気がいい女性が多いので、どの
ような議論になるのか楽しみである。
∇ 六中から新宿高校へ
こんな珍しい年次があった、ということをご紹介したい。
六中から新宿高校に移り変わる時に、結果的には中高一貫校のように、あの新宿御苑の隣の校舎で
6年間学んだ学年が、複数年次あったはずである。我々の新3回もそのうちのひとつだが、それに加えて
自慢?できる、唯一珍しい年次だということがある。それは六中から新宿高校への長い歴史の中で、
入学試験の無かったのは、この年次だけだということである。でも我々同期の名誉のために言っておくが、
決して最初から入学試験がないことになっていたわけではない。厳しい競争の入学試験があることを前提に
手続きをしていた。
小学校の卒業時期は、終戦半年前の昭和20年3月だった。東京空襲は日に日に激しくなり、ついに
母校のある新宿地区も大空襲に見舞われた。昭和20年3月10日未明から始まった東京大空襲では、
下町を中心に死者10万人、負傷者11万人、家を失った人100万人といわれている。あたり一面焼け野が
原になり、都立中学の入学試験は急遽取り止めになり、全員入学になったのである。
私は世田谷区に住んでおり、一寸郊外だったので家は戦災から免れたが、通っていた奥沢小学校では
卒業式も行われなかった。因みにこの年の卒業式は35年後の昭和55年に
行われた。勿論正式のものではない。

中学1年の8月に戦争は終わった。その後、昭和23年3月に学制改革があり、それまでの6・4・2・3
(小・中・高・大)制から6・3・3・4制に移行した。旧制都立第六中学校はなくなり、新制都立第六
高等学校が発足した。我々中学3年生は都立第六高等学校併設中学校となったのである。程なく4月には
第六高等学校1年生に編入された。そして昭和25年1月になると、学校名はナンバースクールではなく
なり、今の都立新宿高校となった。そして昭和26年3月目出度く卒業となった。
6年間同じ校舎で、学校の名前は4つも変わったことになる。我々より2年後の皆さんは25年1月から3月までの
中3は、都立新宿高等学校併設中学校と呼ばれ、25年3月をもってあの校舎での中学の歴史は終わったはずだ。
こんなことで、我々は小学校から大学までの16年間の学校生活で、入学式なるものは小学校と大学の2回、
卒業式は高校と大学の2回、入学試験は大学の1回だけという、大変変則的な形になった。勿論卒業証書は
高校と大学の2枚しかない。
六中から新宿高校の6年間、同じ先生に習い、同期も仲が良く、いまだに同窓会も盛会裏に続いている。
最近中高一貫が論議されるが、良い点も多々あると思う。
それにしても、六中の入学試験がなかったことだけは6年間ついてまわり、何かにつけまずいことが
あると「お前達は無試験だからなあ!」と言われるので、逆に皆頑張った。おかげで、東大の入学試験
合格数はこの年次が最も多かったはずで、溜飲を下げたものだった。
この文章を書いていて、表中の*と**のところは正確なのか自信がなくなった。どなたかご教示
いただける方がいらっしゃったら、会報で発表していただけませんか?
【事務局から】
お約束どおり九州朝陽会報第2をお届けします。会員各位に寄稿をお願いしたところ、早速川邊さんと
石井会長から送稿があり、2頁になりました。両先輩とも失礼ながら既に古稀を過ぎてなお健康を維持
され、それぞれの豊かな人生経験を元に、益々積極的に社会貢献に努められ、その姿勢には敬服するばかり
です。これからの高齢化社会に向けて、我々後輩の余生の処し方の良き範としたいものです。
石井会長の今回の原稿は、終戦直後の教育界の混乱状況があらためて思い起こされ、教育基本法が
話題となっている昨今、我々は孫子のためにもそれについてもう少し真剣に考える必要があるのではと
思わされました。
次号は7月発行予定ですが、是非会員各位の寄稿をお待ちしています。自己紹介、高校時代の思い出、
体験談など、800字程度にまとめてください。原稿締め切りは5月末です。
尚、年会費未納の方には、再度振り込み用紙を同封します。ご多忙とは思いますが早急に納付お願い
致します。